「ロザリア」後編
 以来、バルフレアは店に姿を現さなかった。連絡先は聞いてあるが、コンタクトを取る理由が、まだない。
 店内の清掃を一通り終え、ウォースラがスケッチブックを覗き込む。オープン前の掃除は分担ということになっているはずだが、箒をもっているのも、はたきを持っているのも、ウォースラだ。
 アルシドは画用紙の上でせかせかと鉛筆を躍らせている。やがて行き詰っては、破り捨て。もう何日もこの調子だ。
「……まだやっているのか」
「当然でしょう。約束ですからね」
「お前の口から“約束”なんて言葉が出ようとはな」
「おや。心外ですねぇ」
 ウォースラはふんと鼻を鳴らし、けれども無言で、何の反論もせずにスタッフルームに入っていった。
(どうやらウォースラも怪しんでいるようだな)
 真犯人は誰であるか。
 バルフレアが店へ訪れなくなると同時に、店内の商品が突然消えてしまうことはなくなった。しかし、それがそのまま犯人特定と結び付けられらない理由が、ひとつ、ある。あの日、あの時、同じように店内に居た客の存在だ。三十歳前後の男で、何度か来店している。毎度バルフレアと同じ時に来ていた、とは考えにくいし、だったとして意図不明だが、不審な点がないとは言えない。アルシドの中にあの男が店を出た記憶がないのだ。バルフレアを追って行った頃には、まだ居た気がする。だが、戻った時に姿はなかった。いつの間に消えたのか。バルフレアを連れ帰るうちに店を出たから分からなかったと言ってしまえばそれまでだが、店内に残っていたウォースラもその男を怪しいと感じたから、バルフレアを犯人と決め付けられずにいるのだろう。――まあ、どれだけ考えた所で、盗みのなくなった今となっては、意味のないことだが。
 何より今は、このリングだ。スケッチブックを捲り、鉛筆を滑らせる。どんなデザインを好むのだろう。どんなデザインが似合うのだろう。
 このリングがはまる、指。一本一本それぞれが長く、しなやかだった。それから――浅い茶の短髪。目尻の垂れた女顔。別段美形というわけではないが、自信に満ちた笑みは良い男だと周囲を躍らせる程の迫力があった。身長はどれくらいだったろうか。目の色はどうだったか。服装の好みは。好きな色は。
「その薄ら笑いをどうにかしろ。気味が悪い」
 スタッフルームからヒョイと顔を覗かせて。ウォースラはげんなりと眉を顰めた。アルシドは返事もせずに『ふふふ』と一人で笑いながら、忙しなく鉛筆を動かしている。
 正式な客ではないのが些か残念だが、身に着ける人物を特定してオーダーを受けたのは、初めてだ。
 楽しくて、楽しくて、堪らない。
 不敵なオーラを纏うアルシドの背に深く溜息をつき、ウォースラは有線の電源を入れ、店のドアを開けた。これが最後の『ロザリア』オープン。二人は当時、知る由もなく。


*  *  *


 まだ午前だというのに、生温かい空気。開いたドアの隙間から見えた夏とその光景に、ウォースラは愕然と表情を固まらせた。
「あのう、もう入っても良いんですか?」
 聞かれた。列の先頭に居た男に。ウォースラが「あ、ああ」と言葉なくドアの隙間を広めると、その光景が店内へと一斉に雪崩込む。狭い店内はあっという間に客と思しき人々で溢れかえった。
 商品を手に取り、嬉々と目を輝かせる客。状況が飲み込めずに固まったままの店員二名。
 小さい店舗、無名ブランドのショップにしては、そこそこ客が入っている方だと思っていたが、今まで一度もこんなことはなかった。
 もともと数が少ないということもあったが、商品はものの数十分で全て棚から消え去り。漸く我にかえったウォースラは、客の切れ目を見計らって早足でドアにクローズの札をかけた。
「……」
 未だ言葉は出てこない。何もなくなった店内で、二人、ぼんやりと立ち尽くす。どれだけそうしていただろうか。暫く大人しくしていたドアが再び開いた。
「申し訳ございません、今日はもう……」
 アルシドが慌てて一歩出る。しかしその客はニコニコと微笑みながら、店の中に入り込んで来た。『ロザリア』には大凡似つかわしくない、老人。悠々とアルシドとウォースラの前まで来て、やっとその足を止めた。どこからともなく雑誌を取り出し、付箋の貼ってあるページを開いて、アルシドに手渡す。
「……。これは」
 いつもニヤニヤと不敵に微笑んでいる様な男だ。そのアルシドが驚愕に目を見開く様なんてそれまで一度も見たこともなかったから。ウォースラは乱暴に雑誌を引っ手繰り、見開きで掲載されている写真を凝視した。
「何だと」
 若者向けのファッション雑誌。そこに載っていたのは、アルシドがデザインした、ウォースラが形にした、ロザリアのアクセサリー。しかし驚くべき点はそこではない。店から消えた、盗難品だった。全部、全部。

「――と、そういうわけです。貴方には在らぬ疑いを。失礼いたしました」
 深々と頭を下げる。バルフレアはフムと視線を斜め上にやり、ウエイトレスが運んで来たばかりのアイスコーヒーに口をつけた。
「盗みに遭ったはずの品々が、なぜ雑誌に?」
「さて。それは神のみぞ知る、でしょうか。雑誌社に問い合わせても教えてはくれませんでした。ロザリアがなくなった今となっては、もう追求の意味がないことですしねぇ」
「……なくなった?」
 バルフレアが怪訝と眉を顰め、聞き返す。涼しげな音を立てて氷を叩くストローは、中身の液体を運ぶことなく唇から離れ、宙に揺れた。
 アルシドは口元を微笑ませたまま目を閉じ、
「ええ。先週に店仕舞いをしました」
 しみじみと。再び開かれた瞳は、遠いものを眺めるようだった。
 問い詰め、責める目は、バルフレアだ。無言のそれに、アルシドは苦笑いを洩らし、言葉を繋げる。
「雑誌を持ってきたご老人ですが。アナスタシス、ご存じでしょうか」
「ミーハーブランドのオーナーだな」
「ええそうです。彼が、新規ブランドの立上げを考えている、デザイナーとして招き入れたい、と」
「アンタをか?」
「二人を、です」
 もっと話せとバルフレアの目が言った。けれどもアルシドはそこで口を閉ざし、未開封のタバコを取り出した。とっくの昔に経っていたから、洒落たジッポなんて持っていない。ピンク色の百円ライター。それを目を細めて眺め、バルフレアは肺に溜めこんだ空気を細く長く吐き出した。
「なるほどね。上手い話だ。乗らない手はないな」
 売ったのか。腕を。感性を。ロザリアを。
 アルシドは、答えない。たっぷりと無言の間を持ち、見切った様にバルフレアは席を立った。
「まあ、アンタの創った世界だ。どうしようがアンタの勝手」
 だけど。
 アルシドは何も言わずに煙草の先に火を付け、二人の合間にある空間にたっぷりと煙を吐いた。バルフレアはそこにくるりと背を向けて。
 通い詰めた。初めて憧れ、多分尊敬もしていた。安っぽい蛍光ピンクが、似合わなくて、笑えて、なんだか泣けてきそうだった。
 立ち去ろうとする背。アルシドが名を呼び、引き止める。
「ポケットの中を見て下さい。左です」
 長い指が少し戸惑った後、ポケットの中に入って行く。何かを見つけて、止まる。
「ウォースラの――そして『ロザリア』の、最後の作品です」
 傑作だ、と、頷いたのは、ロザリアの二人。何日も徹夜をして、本日早朝のこと。
 あいにく持ち主の表情は、背を向けられていた為、知ることが出来なかった。けれど。ヒラヒラと手を振る指のひとつで輝くリングは、その後何年も時を超えて。
 今も、その場所に存在し続けている。