recipe 9
「ご機嫌ですねえ」
 少し時計を見ただけでこれだ。バルフレアは小さく舌打ちをし、派手なアクションでレジの電源を落とした。時刻は午後六時十五分。あと十分もすれば、ヘーゼルの店主が迎えに来る。
「そりゃあな。俺の好み位分かってんだろ」
 唇を微笑ませ、わざとと挑発的な態度で肯定した。いや、実際そこまで楽しみなわけではないのだが、このままアルシドにからかわれるのは癪に障る。
 アルシドは髭を指で撫でながらフフンと笑い、売り物のソファに身体を投げた。革張りのラブソファは小さく軋み、長身を弾ませる。
「どちらにお出かけで? あの映画はもう終わっている時間だ」
「随分詳しいな」
「調べました。貴方が上機嫌でお使いから帰って来た後、すぐに」
 アルシドは隠さない。どころか、楽しんで作りものの嫉妬を投げつけて来る。看板を消そうとドアに向かった所をソファから伸びた長い足に妨害され、バルフレアは大袈裟に溜息をついて見せた。
(こんなことなら、約束なんてするんじゃなかったぜ)
 チケットの映画は一度観たからと断った。しかし店主は意外にも、ならば食事はどうだ、と食い下がって来たのだ。真面目で面白みのない男という印象が強かった為、あまりの豹変ぶりに最初は驚いた。けれども考えてみれば、ああいう地域密着型の店なら人づき合いを重んじて当然だろう。常連だし、釣りを間違えてしまったし、その後ぱったり店に現れなくなったし、この辺りで交流を深めておくか、といった具合か。店に向かうまでは全くその気がなかったバルフレアだが、店主の押しに呆気に取られ、特に用事もないしと頷いてしまった。――顔を見てるうちにその気になってしまったというのも少しあるが。
「おら、邪魔だ。足をどけろ。早く帰れ」
 踏みつけてやろうと足を上げると、アルシドはひょいと身体を起こしてバルフレアの手を掴んだ。
「態度を改めなさい。そう言ったばかりだと記憶していますがね?」
 漆黒の前髪が垂れる顔。それが一瞬で目の前に寄り、バルフレアは思わず後ずさろうとする。が、腕を掴まれているから当然叶わない。バルフレアは歯軋りをしながら目の前の男を睨み、やがて観念して視線を外した。
「……分かったから離せ」
「分かりました、でしょう?」
 諭すような口調。煽る手段を心得ている。バルフレアが迷う間に摘む腕をグイグイと引き、距離を徐々に縮めていく。
「返事はどうしたんです?」
「……あの約束がなきゃ、こんな店今すぐにでも辞めてやる」
 言い切る前にバルフレアの身体が大きく傾いた。強く腕を引かれ、アルシドの肩に倒れこむ。
危険を察知して体制を整えないまま逃げ出そうとしたが、狭い店内のあらゆる商品がバルフレアの行く手を阻み、すぐにソファの上に纏められた。
「ああ、久しぶりですね。こんなに近くで貴方の香りを感じるのは」
「変態」
「ふふ。そう呼ばれるのも嫌いではないんですよ。貴方から限定ですがね」
 バルフレアの首筋を黒髪の先が擽った。手元にビール瓶があれば迷わず頭にぶちまけてやる所だが、探せど触れるのは隣の什器にある古着ばかりだ。アルシドはくっくと喉を鳴らしてバルフレアの表情を眺め、ニマリと無邪気に微笑んだ。
「こういう展開だと、この後のパターンって決まってくるものですよね」
 フウ、と間近のドアが風を作った。