recipe 8
 コンビニの脇の細道を入ると、すぐに商店街の通りへ出られる。通って一か月程した頃に見つけた近道だ。燦々と照り付ける日差しが不快で、影を縫うように歩く。なんとなくポケットに手を入れると、先程の封筒が指先に触れてバルフレアは足を止めた。
 全然嬉しくないといえば嘘になる。あの顔は好みだ。それは変わらない。けれども「今更」という思いの方が強かった。
 パンネロがバイトとしてヘーゼルに来るようになり、カウンター傍の席からは様々な会話を聞くことができた。口調は顔に似合わず物静かで、女子高生の恋やお洒落の話にも嫌な顔一つせず穏やかに頷く。その辺りにも、年上を好むバルフレアは好感を持った。しかし、話を聞いているうちに致命的なミスに気づいた。
(まさか既婚だったとはな)
 会話に度々伴侶の存在がちらついていた。聞く限りでは相当の愛妻家だ。三か月という節目もそうだが、見切る決め手には十分だった。
 ある程度年齢が行ってそうな相手ならば、バルフレアは真っ先に配偶者の有無を確認する。面倒を嫌う性格から、既に他人のものになった人間に関わりたくはないのだ。指輪を一切していなかったものだから、てっきり未婚だと思っていた。しかし、考えてみたら飲食業なら、どんな意味のあるものだとしても指輪は外すもの。
(馬鹿馬鹿しい)
 今頃映画に誘われたからと言って一体何になるのだろう。間近で好みの顔を鑑賞出来るのは結構だが、何だか虚しいではないか。
 迂闊にもセンチメンタルな気分に陥りそうで、バルフレアは頭を軽く左右に振った。恋愛はハマった者負けだ。ここで深追いしたら、望まない勝負の敗者が決まる。
「よお、兄ちゃん。いいスイカが入ってるんだ。買わねえか?」
 八百屋の男に声をかけられたが、素通りしてヘーゼルのドアを開けた。
「いらっしゃいま――あ!」
 トレイを胸に抱えたパンネロが、バルフレアの顔を見て口元に手をあてる。それから直ぐに笑顔を作り、一歩後ろに避けてバルフレアの道を作った。
「いらっしゃいませ、お久しぶりです」
「光栄だね。覚えて貰えてたなんて」
「当然です。毎日通ってくれてる常連さんですもの。ね、叔父様?」
「あ、ああ」
 パンネロが顔を向けたカウンターの向こうで、店主はバツが悪そうに返事をする。
(よく言うぜ)
 バルフレアは口の奥でそう悪態づき、いつもの席ではなく一直線でレジの前に向かった。店主が先回りをしてバルフレアを迎える。
 居心地が悪い。
 そう感じて、バルフレアは店主に顔を向けずに、カウンターに並んだクッキーばかりを見ていた。十種類近くあるだろうか。大半がいびつな形をしたロッククッキーだが、ドライフルーツを混ぜこんだ物から、生地そのものの色が違うものまで色々ある。アルシドから頼まれた品は、最もシンプルな形をした狐色のクッキーだった。透明の袋に地味なリボンのかかったそれに手を伸ばす。すると、向こう側からもう一つ指が伸びて、バルフレアよりも先にクッキーの袋を掴み上げた。
「もう来ては貰えないのかとばかり思っていたよ」
「は?」
 まさかあの無口な店主から先に声を出すなんて思っていなかった。あまりに意外だったものだから、バルフレアは口を「は」の形で半開きにしたまま、カウンターの向こうに居る店主を見た。店主は柔らかく微笑みながら、クッキーの包を紙袋に入れている。
「ひとつで良いだろうか」
「……いや、三つ」
「分かった」
 ゴツゴツとした手が素早くクッキーを袋に詰める。
「器用だな」
 筋張った指が細かに動き回るのが不思議で、バルフレアはふうんと感心の声を洩らした。
「元はそうでもないんだ。慣れているだけだよ」
 店主ははにかみながら紙袋に封をし、それをバルフレアに手渡した。
「いくらだ?」
「不要だ。また来てくれたお礼に」
「あ、そ」
 バルフレアは無関心に返事をして紙袋を受け取った。貰える物は遠慮なく貰う、がモットーだ。
「今日は随分多弁だな?」
「ああ。初対面で会話をするのは得意ではないが、そうでなければ人並みに話す。それに、君が来てくれて嬉しいんだ」
「……」
 バルフレアはその場でコント的に転倒しそうになった。店主の表情は至って普通。つまりこのセリフを素で言っているのだ。バルフレアも女を口説くのに大袈裟な文句を使ったりするが、当然素で言っているわけではない。言いながら心でちょっとウケている。
(……マジかよ。恐ろしい男だな)
 天然のタラシは初めて見た。バルフレアはクラクラと眩暈する頭を抱え、それでもどうにかポケットの封筒を取り出して店主に差し出した。
「気持だけいただいておく」
 店主は最初バルフレアの言葉の意味が解らなかった様だが、数秒遅れで理解して眉間に皺を寄せた。
「なぜ」
「なぜって……アンタ、客をナンパする気か?」
「い、いや、そんなつもりはない。私は約束を守ろうと思っただけだ」
「約束? んなもんした覚えは――」
 言いかけた所で、バルフレアはハと言葉を止めた。約束をした覚えはないが、確かに映画を観に行こうという話はした気がする。しかもバルフレアから誘った気がする。しかし、あれは。
(社交辞令だろ。わかれよこの天然オヤジ――!)
 口を抑えてクックと笑うバルフレアに、店主はひたすら首を傾げた。