recipe 5
 店主は基本的に何でも真に受ける性格だ。だから、あの釣り銭の事件の翌日には映画のチケットを買って、いつでも渡せる準備をしておいた。
「困ったな」
 誰も居ない店内でポツリと呟き、カウンターの内側に下がった貰い物のカレンダーを見た。あれから三日が経つが、例の常連客は一度も姿を見せない。
(やはり釣りを忘れたりしたから信頼を失ってしまったのだろうか)
 店主はカウンターの正面にあるイスに腰をかけ、ポケットの中にある封筒を取り出した。三日間も入れっぱなしになっていたものだから、あちこちに小さな折り皺がついてしまっている。中には映画のチケットが一枚入っている。どんなものを好むかなど当然分からないから、適当に何種類か買っておこうかとも思ったのだが、それはなんとなくやめておいた。喫茶店の店主と常連客、という間には重すぎる気がしたからだ。チケット売り場の前でああでもないこうでもないと悩んだ末、結局ランキングで連続一位を獲得しているハリウッド映画を選んだ。もうずいぶん前に公開になった、話題作の第二作目だ。もう観てしまっているかも知れないが、それならそれで買い直せば良いと思った。けれども、観た観ない、買い直す買い直さない以前にこの現状だ。どうしたものかと店主は腕を組む。
「おはようございまーす!」
 ドアベルに明るい声が絡み、パンネロが店内に駆け込んだ。ドアの隙間から日の光が入り込み、パンネロの持つ空気と合わさり店内を華やかに彩る。
「おはよう」
 店主は封筒をポケットにしまい、即座に笑顔を作った。切れ長の鋭い目は、笑うと糸の様に細まり、ちょっとだけ愛嬌が出る。
「もう開店準備はおしまいですか?」
「少し早く来すぎてしまったようだ」
「……あら?」
 パンネロが店主の足元に視線を止め、そこの顔を固定したままトコトコと歩み寄った。
「?」
 店主は思わず足をどけ、屈んだパンネロの手に触れてしまわないようにと体制を変える。
「これ、叔父様の?」
「ああ、すまない、私の物だ」
 先程のチケットが入った封筒だった。ポケットに入れたつもりでいたが、すり抜けて落ちてしまっていたのだろう。パンネロから封筒を受取り、軽く埃を払う。パンネロは小首を傾げてその仕草を眺めていたが、唐突に手の平に握った拳の底をぶつけた。
「昨日友達と駅前の大通りに遊びに行って来たんです」
 バイトが終わった後のことだろう。店主は突然何の話をしはじめたのかと疑問を抱きつつも、聞く姿勢を作って無言で相槌を打った。
「前々からクラスで噂になってる店員さんが居て、そのお店に行ってみようってことになって」
「ふむ」
 ここで店主は、ああ、いつもの女子高生らしい話が始まったのか、と表情を和らげた。別に聞いていて楽しい内容ではないが、パンネロが嬉々と話しをする様は見ていて微笑ましい。
「その店員には会えたのかい?」
「はい! ……あっ、会えたっていうか。私は外から覗き込んだだけなんだけど、とにかく驚いちゃった!」
「うん?」
「カウンターの向こうに座る常連さんだったんです」
「……彼が?」
「ええ、何だか鼻が高かったなー。だってクラスの話題の人が、このお店の常連さんなんだもん」
「そうか」
 店主は腕を組み直してフムと眉間に皺を寄せた。言われてみれば、確かに綺麗な顔立ちをしていたかも知れない。
(少々遊んでいそうな印象だったが)
 しかしそこがまた女性の気持を擽るのだろう。初めて声をかけられた時は、同性とはいえ店主もドキッとした――気がしないでもない。
 黙りこんで首を傾げていると、パンネロは「あのう」と突っ込みを入れたそうに店主の顔を覗き込んだ。
「お店の場所、聞かなくて良いんですか?」
「うん? なぜだ?」
「だって、それ」
 パンネロがそろそろと店主の手にある封筒を指差す。店主はハッと細い眼を見開き、慌てて封筒をポケットの中に押し込んだ。
「……もう、叔父様ったら。地図を書いておきますから、後で絶対に渡しに行って下さいね。私、あの方が常連さんで自慢なんですから、このままいなくなっちゃったら困ります」
 パンネロはふふと笑って、カウンターの下から伝票を取り出した。一枚千切って、スラスラと地図を書き始める。
「……」
 若い女の子のこの手の押しには勝てない。店主は少し気分を重くしながら、丁寧に書き込まれた地図を受け取った。