recipe 4
 うまいコーヒーが好きだ。でも、いい女といい男はもっと好きだ。
 若い男がヘーゼルに通うようになったのは、今から約三ヶ月程前。バイト先の店長が店名と地図の乗ったマッチを持っていて、休憩時間に何となく足を運んだのがきっかけだ。若い男は長くこの街に住んでいたが、バイト先が駅前の大通りで大概の買い物もそこで済ませていたから、一本外れた商店街に足を向けることは少なかった。
 その店はまず、若い客が少なかった。この近所に住む常連客が主なのだろう。静かな店内には静かにジャズが流れ、ゆっくりと過ぎていく時間をじっくりと味わえた。
 それから、コーヒーが美味かった。いや、若い男は通と言える程コーヒーに拘っているわけではないから味の違いなど詳しく分からないのだが、とにかく癖がなく飲みやすかった。
 そして何より、店主が好みのタイプだった。これは大きい。何せ若い男は面食いだ。無口な所がまた興味をそそって、バイト前に通うようになった。――前に、というか、家を出る時間は変わらなかったから、バイトを毎日遅刻する結果になったが。
 通い詰めること三か月。若い男は少し飽き始めていた。店主とは業務上のお決まり文句以外一度も会話を交わしたことがない。それどころか目が合った記憶もない。男は確かに軽い性格で、女を見れば口説き文句を口にしたが、気がある相手には自分から声をかけないのがポリシーだった。行く行くは関係をと望んで通っていたわけではなかったが、会話もなく三か月だ。ちょっと気に入ったというだけの店なら、他に乗り換えてもおかしくない時期だろう。そんな折、ヘーゼルに新しいバイトが入った
 パンネロと名札を付けたそのバイト生は、小鳥のように良く喋り、よく笑う。客にべらべら話しかけるわけがないから、専ら店主を相手に。勝手に流れる会話を聞くでもなくBGMにして流していると、徐々に店主の人格が伝わって来た。若い男は寡黙だとばかり思っていたのだが、なかなかに話好きで人懐っこい性格らしい。キリとした顔つきの割に、おっとりしているというか、マイペースというか、会話の読みが浅いというか。一般に天然と言われるタイプだ。
 知って行くうちに距離が縮み始めたような錯覚に陥り、そしてつい先日、とうとう若い男から声をかけてしまった。感想は「しまった」だ。同じ日に同じ映画を観て同じ場所にいた。それが少し愉快に思えたからといって、話しかけるべきではなかった。店主は驚いた様子で若い男を見ていた。
「客商売向かねえな、あれは」
 若い男は手の上でクッキーの入った袋を放りながら、バイト先のドアを開けた。店主に常連客だという意識があれば、いくらマイペースな人格とはいえ何かしら言葉を返したろう。あれは明らかに、初対面の人間を相手に見える反応だ。三か月ほぼ毎日通った客の顔すら覚えていないなんて、悲しいというよりは寧ろ感心してしまう。何となく間が居心地悪くて『映画に付き合え』などと言ってみたが、あれは当然気まぐれの社交辞令だ。若い男が気のない相手に吐く言葉と同じ種のもの。外見は惹かれたが、あまりの無関心な態度に見事興味を削がれてしまった。ささやかな楽しみを奪われてしまったようで、非常に残念だ。
 ごちゃごちゃと古びたレコードが並ぶ店内の奥に入り、狭いスタッフルームのパソコンに出勤コードを打ち込む。エンターキーを押した所で、背後から声がかかった。
「えー、そこ。“(チ)”って書いてあるんですが。見えますかねえ、バルフレア殿?」
 独特の間を持つ口調。バルフレアと呼ばれた若い男は、やれやれと肩を竦めた。胸の空いたシャツを着た背の高い男が一人、不可解な笑みを浮かべてパソコンを指さす。
「ほら、ここですよ。三ヶ月前からずっと並んでいるでしょう? これ、遅刻、って意味なんですよねえ」
「へえ、そりゃ初耳だ」
「次に同じマークがついたら、時給百円カット。よろしいですかな?」
「ぁん?」
 バルフレアの眉がぴくりと跳ね、ここで初めてシャツの男の顔を見た。狭いためにどうしても至近距離を強いられる。
「アルシド、それはどういう――」
「店長、と、お呼びいただきましょう。そういう強かな態度は私好みですが、社会に出た時苦労しますよ」
「……」
 バルフレアは不機嫌にフンと鼻を鳴らし、アルシドの肩に自分のそれをぶつけてスタッフルームを出た。
「おわかりいただけたんで?」
「はいはい。わかりました、店長」
 バルフレアは望まれた単語をわざとらしくゆっくりと発音した。