recipe 3
 一体何をそんなに挙動不審になっているのか、と。そう笑われることは今までに何度か経験した。
 店主は何年か前まで、とあるスポーツのキャプテンを務めていた。取材を受けたり壇上にあがる機会は多々あったが、そういった場面では驚くほど堂々と構え、口数こそ少ないがはっきりと意見を述べた。侍を彷彿とさせるその態度は、一時期様々なメディアで話題になったものだ。けれどもそれは、彼が一途に向き合った分野でのみの話。実際は別人かと見間違う程、社交下手で純朴だ。
 釣りの渡し忘れは仕事上のトラブルだから、普通ならば堂々と客に向かい、誠意を持って謝罪するのだろう。だが今回は少し違う。映画はどうだった、と聞かれたのだ。それはつまり、パンネロとの会話を聞かれていたということ。しかし、店主自身はその客についての情報を全く得ていなかった。常連客だというのに、昨日初めて顔を見た。パンネロとの会話は他にも聞こえてしまっていたかも知れないし、毎日通っているのなら情報料も比例するだろう。知られているのに、何一つ知らない。店主には、それがなんとも気恥ずかしく感じられた。
 カップとソーサーが不自然にカチャカチャと鳴り、店主は意識的にトレイを握る指に力を籠める。間仕切りを通り越すと、本の活字を追っていた目がスイと上がり、店主のそれと重なった。
『おまたせいたしました』
 声になるコンマ数秒前に、男が微かに唇を緩ませる。だから店主は見事にタイミングを逃してしまい、テーブルに置く動作が先を行ってしまった。
「カフェモカです」
 幸いここで若者の目線がカップに映り、店主はほっと息をつく。このままの流れでセカンドミッションをこなそうと、空いた片手でエプロンのポケットから封筒を取り出した。
 若者がジッと封筒を見つめ、それから店主を見上げる。
「申し訳ございません。昨日お会計の際に、お釣をお返しし忘れてしまいました」
 流石に噛んだりはしなかったが、幾らか早口だしぎこちない。汗で額をしっとりと湿らす店主を余所に、若者は「ああ」とどうでもよさそうな返事をした。
「気づかなかった」
 あっさりと封筒を受け取って、再び本に目を戻す。店主は黙ってそれを見守った後、ああと頭で頷いた。
(普通、だ)
 特異なケースだとそう思っていた。しかし、今ここで起きたのは、なんてことない仕事上のやりとり。店主は居心地悪く空いてしまった間を振りきり、落ち着いた足取りでカウンターに戻った。
「どうでした?」
 パンネロが聞き、店主は控え目に、
「大丈夫、怒っていなかったよ」
 と答える。
 パンネロは店主の言葉に少し唇を尖らせた。だってパンネロは最初から男が怒るなんて思っていない。クッキーを喜んで貰えたかどうかを知りたかったのだ。もう一度聞いてみようかと口を開いた時にハと気づき、パンネロは尖らせた唇をいつもの笑顔に変えた。
(あまり喜んで貰えなかったってことかな?)
 だとしたら、深く問い詰めない方が良いのかも知れない。
「もうちょっとでランチタイムだから、お皿洗い終わらせてから休憩いただきますね!」
 そう言って流しの皿に手をつけると、手持無沙汰だった店主もパンネロのコーヒーを入れるためにせかせかと動きだした。この手の遠隔操作な気遣いはパンネロの十八番だ。しかし今回に限っては報われない。喜ぶ、喜ばない以前に、店主はポケットのクッキーの存在をまんまと忘れきっているだけだったりするのだから。
 店主がオーダーの品を届けて十五分程度経った頃だろうか。パーティションの向こう側からイスを動かす気配がした。男が来店するまではやたらと落ち着きをなくしていた店主だが、普通の客と何も変わらないと思ってしまえば自ずと緊張も解れていった。きっと耳に入った会話を何となく聞いていて、何となく声をかけただけだったのだろう。
 店主は自然にレジへ向かい、歩いて来た男から伝票を受け取った。金額を読み上げると、男はチェーンで繋いだウォレットから紙幣を一枚取り出し、ごつごつと大づくりな店主の手に乗せた。さすがに今日は釣り銭を忘れたりしない。店主は表示された数字通りに小銭を取り出し、丁寧に一列に並べてから男に差し出した。男は何も言わずにそれを受けとり、小銭を入れてから財布をパンツのポケットにしまい直す。
「……?」
 店主は首を傾げた。ここで去って行くはずの男は、背を向けるどころか店主に手を伸ばし、何かを要求するように掌を上に向けている。
 意味が分からず長い指を一本一本凝視していると、男はフッと噴き出して、小さく声を出しながら笑いはじめた。
「何か渡すものがあったんじゃねえのか? “叔父様”」
「む?」
 渡すもの、と、パンネロの口調を真似た呼び名。店主は阿呆のように口を薄く開き、笑いを堪えている男の顔を見た。人の顔をマジマジと観察する趣味はないが、パッと見で人目を引きそうな顔立ちをしている。暫くそうして見ていると、男はフンと鼻を鳴らして手を引っ込め、幾らか顎を上げて目を細めた。身長が高いせいかその仕草がしっくりとはまる。
「なんでもねえよ。ご馳走さん」
 軽い口調で言うと、男は店主に背中を向けてひらひらと手を振り、店を出て行った。店主は何が何だか分からず、ドアの隙間に消えていく男の背を眺めていた。ドアが閉まる所で漸くポケットの中の存在を思い出し、慌ててレジの引き出し部を閉める。
「叔父様、どうしたの?」
「い、いや。すまない、少し店を頼む」
 急に駆け出した店主に、店の客らは目を丸くして顔を見合わせた。
 店主が通りに出た時には男の背は大分小さくなり、人ごみの中に消えようとしていた。
「おお、どうしたよマスター、そんなに慌てて」
 レダスに声をかけられた事に気づいたが、返事をする時間はない。店主は小さく会釈だけ返し、大通りに向かう男の背を追いかけた。行き交う人々を長年のトレーニングで培った運動能力でヒラリヒラリとかわし、男のすぐ後ろまで追いつく。声をかけようとする寸前に、男が店のドアに手をかけ、店主は思わず手を伸ばした。
「っ」
 勢い余って肩を強く握ってしまった。男は反射的に身体を固くして振り返り、店主の顔を睨みつける。
「ああ、アンタか」
 相手がヘーゼルのマスターだと確認すると、店主の手を軽く払いのけて体重を後ろに落とす。そうすれば僅かな身長差がほぼ同じ目の高さに揃った。
「なんだよ。今度はつりを渡し過ぎたか?」
 店主がすぐに答えないのは、急に全力で走ったばっかりに息が切れてしまっていたからだ。それに気づいていたのか、男は何も言わずに店主の唇から声が発せられるのを待った。間もなく、店主は無言のままポケットから袋詰めされた物を取り出し、男の手の上に乗せた。
「昨日のお詫びに」
 やっと出た言葉も至極短い。男は手の中の袋をじっと見てから一度頷き、再び店のドアに手をかけた。
「アンタ、忘れてた癖に、わざわざ追ってきたのか」
 こんなにちぐはぐでは、『お詫び』の重要度が店主にとって高い位置にあるのかその逆なのか、まるで分からない。
(まあ、貰っておくかね。クッキーに罪はない)
 ドアを開いた所で男ははたと足を止め、何も言わずにいる店主を肩越しに小さく振り返った。
「あそこの映画館、気に入ってるんだ。暇な時にでも付き合えよ」
 店主は少し間をおいてから深く頷いた。けれども男は店に入ってしまっていたから、店主の返事を見届けるものはなかった。