recipe 15
 まるで仕事が手につかなかった。かろうじて客にまでは迷惑をかけずに済んだが、カップは三つほど割ってしまったし、オーブンからクッキーを取り出す際、腕に軽い火傷をした。パンネロはパンネロで普段と異なるヘアースタイルに浮かれてしまっていて、バッシュの視界内だけでも五回、なにもない床で躓いていた。
 一体何の悪戯だろうか。
 店の施錠を確認し、帰り道とは逆の方角に足を向ける。
 振って湧いた、春。
 結婚はまだかと周囲や双子の弟にからかわれる度、良い縁があればいずれと曖昧に返していたが、まさか自分にそんな趣向があるとは。
 きっかけは何だったろう。その方向を初めて意識したのは、恐らくレコードショップでアルシドがバルフレアにちょっかい出している所を目撃した時だ。つまりは昨日の今頃。自分の感情を疑い始めたのは、考えるまでもなく今朝の一件から。急にも程がある。いや、気付くのが今頃になっただけで、実はもっと前から始まっていたのか。そう考えてしまえば、初めてバルフレアと会話をした時すら妖しく思えてくる。
(違う。あの時は本当に、釣を忘れてしまった詫びがしたかった。それだけだ)
 溜息は、黒混じりの紫色。はたまた花弁を思わせるピンク色か。中年男の悩みはマントルより深い。
 忘れ物があると知らせに行ったのは、確かにバルフレアが困っているかも知れないと思ったからで、食事に誘おうなどとは微塵も考えて居なかった。
 この道を進みたいのか、引き返したいのか。それさえも、解らない。
 レコードショップの手前まで来て、足を止めた。ドアが開き、女子高生がキャイキャイとはしゃぎながら店から出てくる。
 そういえば、クラスで人気があるのだとパンネロが言っていた。
 付き合っている恋人は居るのだろうか。
 ここでポンとあの胡散臭い黒髪の男が頭を過る。脳内アルシドはニヤニヤと笑いながら分身の術と思しきものを唱え、一人から二人、二人から四人へと鼠算式に増殖していった。あっと言う間に頭の中はアルシドで溢れかえり、ギュウギュウ犇めく様が満員列車に似てるな、などと考えてしまったものだから、もう手に負えない。颯爽とトーマスが現れたと思ったら、見る間にその顔がアルシドに変わり、ポッポーと出る煙までアルシドの粒子から出来ていて。気づかなければ良かったものを、ナレーションまでアルシドだ。
「何を考えているのだ、私はっ」
 余りの恐怖に背筋が凍った。かぶりを振って、アルシドを頭から追い出す。その場で小さく深呼吸を繰り返し、心拍数をほぼ正常値まで戻してからドアノブに手をかけた。



 昨日と同じ時間。同じ店。そこに足を運んでしまったのは、バッシュが予約を入れてしまっていた所為だ。
「なんで同じ場所なんだよ」
 不満そうに幾らか唇を尖らせ、おしぼりをたたみ直す。灯りのメインを間接照明においている為か、バルフレアが瞬きをする度、下瞼に睫毛の影が落ち、尾の下がった目が一層その角度を強調していた。
 バッシュはテーブルの中央に置かれた灰皿にジッポを乗せ、バルフレアの前まで押す。
「君がこの店を気に入っているのだと思ったのだ」
「それにしたって二日連続で同じ店はないだろ」
「しかし君、頼んでいる品が昨日と全く同じだ」
「気に入ったもんを飽きるまで食う主義なんだよ」
「ならばやはりこの店で正解だったのだろう」
「まあ、嫌いじゃないが」
 ジッポを手に取ったが、タバコに火はつけない。どうやら食事の前には煙を吸わないタイプらしい。
「強そうに見えるが、好きではないのか?」
 運ばれたばかりのジョッキに口に運び、バッシュが聞いた。バルフレアが飲んでいるのは、炭酸水にガムシロップとレモンを加えたカクテルもどきだ。
「……あー、飲めないわけじゃないんだが」
 歯切れの悪い返事。レモンを絞しながら続ける。
「親父がな。酒癖わりーんだ。俺も多分そうなる気がするから、飲まない」
 気まずそうな表情。父親の酒癖の悪さがどれ程のものか窺える。
 何となく近寄りがたい雰囲気を持つバルフレアだから、両親の存在など想像もしなかった。歳相応の一面を垣間見て、思わず口元が綻んでしまう。
「一人暮らしだとばかり思っていたが、今は実家に?」
「ああ。貯金が欲しいんでね」
「貯金?」
 そこで注文した品々が一斉に運ばれ、一時的に会話が途切れた。
 バッシュが問う目のままでいることなどお構いなしで、バルフレアは箸を取り、まず目の前にあるサーロインステーキに手をつける。それからコロッケ、サーモンの刺身とテーブルに並んだ皿一周、まんべんなく口をつけてから、料理の感想を言うようにぽろりと口を開いた。
「店」
「ん?」
 バルフレアの目線は料理に言ったままだ。返事を待つ間に寸前の会話を忘れてしまっていたバッシュは、唐突な単語について行けず、傾けた首の角度を更に深める。
 バルフレアは黙々と頬が変形するまで料理を口の中に詰め込み、取りあえず最低限の空腹を満たしてから、やっとバッシュの顔に視線を戻した。
「アンタは何がきっかけであの店を開いたんだ?」
「転機、といえば良いだろうか。それまでやっていた――仕事、を辞めて。何をしようかと考えたのだが、その道一本で歩んで来た私には、それとコーヒーが好きなこと以外、何もなかった」
「へえ。じゃあ今はそこそこ充実した毎日を送ってるわけだ」
 このままでは料理全てを自分がたいらげてしまうと思ったか、バルフレアはテーブルの端にある小皿を一枚取り、まだ箸を割ってすらいないバッシュに渡す。
 軽く会釈をしながら受け取り、しかし今は、目の前の料理よりもバルフレアの事が知りたい。バッシュは格好だけで割り箸を割り、津々と会話を続けた。
「君は? あのバイトは大学に入った頃からと言っていたな。きっかけは」
「……アンタ、元々この街の奴じゃないんだっけ?」
「店を開くために越してきた」
「じゃあ知らねーかな。元々はあの店、アクセサリーショップだったんだ。インディーズブランドの」
「インディ……?」
 聞きなれない言葉に眉を顰めると、すかさずバルフレアがフォローを入れる。
「あー、デビュー前のバンド、とかそんなイメージで。自分達でビラ配ってライブやったりするだろ。少ないがファンも居たりしてさ」
「ああ、そうか」
「俺は、そのファンの一人だった」
「成る程。……しかし、今、君の働いている店は――」
「レコードショップってことになってるが。金持ちが娯楽と気まぐれでやってる趣味の悪い雑貨屋だな」
「失礼」
「いや、俺もそう思っているから構わない」
 バルフレアは全く気分を害していない様子でクスクスと笑い、デザートの杏仁豆腐につぷとスプーンを指した。
 気がつくとテーブル一面にあった皿は綺麗に片付いている。バッシュは、焼きお握りをひとつ食べただけだ。食欲がなかったわけではない。話が聞きたかったのと、アルコールで腹が膨れてしまったのと。何より、それどころじゃない位に舞い上がってしまっているのが、一番の原因だろうか。
「店長が変わったのか」
「いんや。ずっと同じ」
 ポンと、先刻のトーマスが頭を過る。
「……あの、黒髪の?」
「そう。今はちょっと名の知れたミーハーブランドのデザイナー兼社長。昔は売れないインディーズブランドのデザイナー」
 やっと、バルフレアがあの店でバイトを続けている理由が分かった気がした。だから、返事は短く「そうか」の一言で。
 駆け出しのデザイナーに憧れ、通い詰めて、金を溜めて、そのアクセサリーを買ったのだろうか。それとも直ぐに気に入られ、プレゼントして貰ったか。
 今まで気にも留めていなかった、長い指の付け根にある、シルバーのリング。片手に三個ずつ、計六個のそれらが、そのまま出会ってからの時の差を物語っている様で。酷く気が滅入った。春盛りの頭がスッと急速に冷えて行った。
「どうした? 急に無口だな」
「少し酔ったのかも知れない」
「だろうよ。ろくに飯も食わないでアルコールだけかっ込んでりゃ。茶漬けでも頼むか?」
「そうだな。君は?」
「鮭茶漬け」
「……本気で?」
「なんだよ。そのつもりがないならわざわざ聞くな」
「いや。注文するのは全く問題がないのだが。本当に君はよく食べるな」
「成長期なんでね」
 言って二と笑う。通りすがった店員に目配せをする。その横顔に、胸が細かなリズムを刻んだ。
「君は――」
 独り言の様な声。しかしバルフレアは目敏く気付いて、バッシュをじっと見た。
 何を言おうとしたのか、バッシュ自身にも分からない。
 間もなく最後のメニューが運ばれて、それを食べ終わったら店を出るだろう。また明日と手を振るのだろう。明日になれば店で会い、けれどもそこでは恐らく、ろくに話しもできない。
 それは、少し、辛い。
「……バイト以外の用事は殆どないと、あれは本当だろうか」
「ああ。何で」
 煙草に火を付け、煙を吐く時だけバッシュから顔を背ける。
(何で、だろうか)
 予想以上だったアルシドとバルフレアの繋がりは確かに堪えたが、それで納まってくれる感情ではなかった。知らぬ間に強い流れに飲まれてしまっていた様だ。それは、呼吸を阻まれる息苦しさと、酔いに似た喜び。
 流れに逆らっても苦しいのなら、いっそ、このまま溺れてしまいたい。
「明日、誘って構わないか?」
 どんな顔をして言ったろう。声を普通通りにと意識するので精一杯だった。
 バルフレアは一度グリーンの瞳を丸く見開き、それから変わり者を見るように眉を顰めた。
「……アンタ、本気で物好きだよな」
 運ばれた料理は二つ。鮭親子茶漬けと、のり茶漬け。
 バルフレアは交互に見て。のり茶漬けの方が美味しそうに見えたらしい。
「門限、十時までだ。それまでの時間で、アンタの奢りならいつでも」
 言いながら、バッシュの前に鮭茶漬けを押し付け、もう片方に箸を付けた。
「ここは何か文句を言うべき所だろうか」
「いんや。年上らしく何も言わずに黙って食う所」
「こういう時だけ年上扱いなのだな」
 鮭茶漬けは、昨夜今夜とこの店で口にした物の中で一番美味しかったが、食べ終わるまで教えずにおいた。
 気になるのなら、明日、またこの店で。
 バッシュなりの、ささやかな嫌がらせだ。