recipe 1
 メインストリートから一本外した裏通りにその店はあった。ブティックやジャンクショップなどが入り混じり立ち並ぶ華かやな大通りとは異なり、小さなスーパーや床屋などが所狭しと軒並みを揃える所謂地元の商店街だ。その店は地域住民が代々受け継ぐ古びた佇まいではなく、比較的真新しい看板を掲げていた。けれどもしっくりと馴染んでいるのは、店が地域の色に染まり、周囲も受け入れているからだろう。
 店の名前は「ヘーゼル」。ネーミングセンスのない店主が知人に考えて貰った名前なのだが、その時に出されていた酒のツマミがナッツだったから、とかいうやる気ゼロの理由で適当に名づけられた。それでもまあ、店主の考えていた「ランディス」や「ノア」よりは良いだろう。「ランディス」はまんまだし、「ノア」は名前の主から迷惑がられる。
「叔父様、次は何をやれば良いかしら?」
 軽快なドアベルの音がして、店の中から若い女性が顔を出した。通り側の窓ガラスを拭いていた金髪の男が、少し考えてから、
「一通り豆を挽いておいて貰えるか」
 と答えた。
 隣の八百屋の店主が、クと首を覗かせて自慢のモミアゲを撫でる。
「おお、随分若いバイトを雇ったな。いつからだ?」
 浅黒い肌に、ツルツルのヘッド。輪郭を縁取るモミアゲは真っ白で――まあなんというか、ぶっちゃけレダスだ。派手なピンク色の前掛けからタバコを取り出し、キザな仕草でジッポーの石を弾く。しかしオイルが切れたのか石がなくなったのか、一向に火は点かない。
 金髪の男は、黒いエプロンのポケットからマッチを取り出し、タバコの先に火を下ろした。
「親戚の子だ。近くの高校に通っていてな。先週からランチタイムを始めたから、夏休みの間だけ手伝いを頼むことにしたのだ」
「へえ、そりゃ良い。ならば俺も折を見てランチにお邪魔するとしよう。これはランチタイム祝いだ。サラダにでも使うと良い」
 言って、店の棚から一つ取り、金髪に向けて放った。金髪は祝いの品が何かを分かっていたから両手で受け止め、軽く辞儀をする。
「いつも悪いな」
 夏に入ってから毎日貰うものだから置き場所がないし、スイカをサラダで出す喫茶店なんて奇抜もいい所だが、好意なのだから受け取るのが礼儀だろう。
 金髪は、スイカを使う新メニューを考えながら、店内へと戻っていった。

 店は喫茶店にしては珍しく朝の八時にオープンする。開店当初は昼近くになってからだったのだが、近所の住人からの希望でモーニング的な軽いセットメニューと朝から営業を始めた。
 朝のオープン準備を終えてから、ランチタイムへ向けての仕込みをし、十時を回ったところで金髪の店主は買い出しに出かける。大抵の物はこの小さな商店街で揃うから店を空けるのはほんの十五分から二十分ほどだ。幸いこの時間帯の客は近所のお爺さんお婆さんばかり。集会所と化しているから、たかが数十分で帰ったりはしない。
 買い物袋をカウンターに置くと、コーヒーのお代りを運んでいたアルバイトが、愛想良く小走りで寄って来た。白いエプロンの胸に、「パンネロ(オススメ:カフェモカ)」と書かれたプレートがある。
「あ、これ、奥さんにお土産ですか?」
 パンネロが紙袋を覗きこんで笑う。
「ああ。今日入荷したらしくてな。つい」
「ふふ、愛妻家ですね」
 “奥さん”というのは、店主が飼っている猫の通称だ。ネームングセンスのない店主は、溺愛するペットにすら名前をつけていない。店主が若い時は“彼女”と呼ばれていたが、最近いつの間にか妻にランクアップしたらしい。当の店主は気分を害することもなく、フフと静かに笑っているだけだ。無口で温和。仕事中に会計の読み上げや挨拶以外の声を出すようになったのも、パンネロがアルバイトに通い始めてからだ。
「そういえば、一昨日の映画はどうでしたか? アルケイディスまで観に行って来たんですよね」
「ああ……」
 アルケイディスは最寄駅から電車に乗って、約一時間上った所にある。この周辺では上映していなかったし、アルケイディスでも限られた日しかやっていなかったから、少し閉店時間を早くして観に行って来たのだ。店主は少し考えてから宿題を忘れた子供のように、頭を掻いて笑う。
「店を早仕舞いしてまで観に行くのはやはりいかんな」
 一か月近く前から店の目立つ位置に閉店時間変則のポップを貼っておいたが、真面目な亭主はそれでも少し後ろめたい気分になった。おかげで映画の内容なんてさっぱり頭に入っていない。
「さて、そろそろ君の休憩時間だ。コーヒーをいれようか」
 コンコンと蓋を揺らし始めたヤカンを絶妙のタイミングで火から外す。これは何人バイトが入ろうが店主の仕事だ。パンネロは挽いた豆をフィルターに入れて、店主の傍のカウンターにカップをセットする。専用の口の細いヤカンから静かに湯が落ち、ジワリと豆を膨らませる。店内に独特の香ばしい香りが漂い、元々和やかな空気を更に柔らかく丸めた。
「昨夜、君専用にブレンドしたんだ。口に合うと良いが」
 店主がカップを差し出した。個人専用にブレンドをするのは、当然パンネロに特別な想いを抱いているとかではなく単なる店主の趣味だ。それをパンネロは嬉しそうに受け取り、休憩を取るために店の奥に行く寸前で、カウンター横のパーティションの向こうから席を立つ気配がする。
「あ、お会計かも」
 パンネロが足を止めたが、店主は大丈夫と微笑んだ。
「私が受けるから、休んでおいで」
 レジに向かうと丁度のタイミングで客もその前に立ち、伝票を店主に差し出す。店主は決まり文句の挨拶をしながら伝票を受け取り、レジスターに金額を打ち込んだ。客が財布から紙幣を一枚取り出し、受け皿ではなく店主の手に直接渡す。
「ご馳走さん。映画はどうだった?」
 長い指が紙幣を置いて去る時に、声がかかった。客から声をかけられることは稀にあったが、それは大抵近所に住む老人からだ。だから、店主は驚いて、顔を上げて客の顔を凝視してしまう。
 身長は店主と同じくらいか、それよりも少し高いだろうか。二十代半ば〜後半の若い男だ。浅茶の短髪を立てて、店主と目が合うと薄い唇の両端を吊り上げて見せた。身形が爽やかな割に、なんとなく悪っぽい雰囲気を醸し出している。店主が何がなんだか解らず口を開けて目を瞬かせていると、その男はバチリと片目を閉じてウインクを投げ付け、何事もなかったかのように店から出て行った。
「な……なんだ?」
 生まれつき目が細い為かキツイ印象を与えるらしく、初対面の人間に気軽く声をかけられるなんてあまり経験がない。同性どころかウインクをされるなんて初めてのことだ。店主は唖然と立ち尽くす。カップを持ったまま一部始終を見ていたパンネロが寄って来た。
「素敵な方ですよね。少しキザっぽいけど、憧れちゃうな」
「彼を知っているのか?」
 だから声をかけてきたのだろうか。店主が首を傾げる。パンネロは「え」と目を丸くすると、続いて華やかに笑い声をあげた。
「やだ、叔父様ったら! 本当、コーヒーと映画以外無関心なのね」
「す、すまない」
 思わず謝る店主に、パンネロはいえいえと笑いを堪え、パーティションを指差した。
「いつも決まってあの席に座るお得意さんです。あの慣れた感じから言って、私がバイトに来る随分前から通ってますよ、きっと」
「そうか」
 店主はどういうわけか人の顔を覚えるのが苦手だ。得意の客さえさっぱり分からないなんて商売人として失礼な話だ。店主は表に出さずガックリを肩を落としながら、途中で止まってしまっていたレジの操作の続きを再開した。自分の手にある紙幣と、表示された金額を見比べる。
「おつりを渡し忘れてしまった」
 あまりにビックリしたものだから、普段は間違わないことろまで真っ白になってしまったらしい。
「明日も来るでしょうし、その時にお返しすれば良いですよ。お詫びにクッキーかなにかを添えて」
 手作りクッキーはこの店のオススメ商品だ。先程の男が甘いものを好むかは微妙な気がするが、何もないよりは良いだろう。
「そうだな。そうしよう」
 少し甘さを控え目にして、バター味よりはココア味が似合うかも知れない。店主は指を顎に添えてあれこれと頭を捻りながら、店の奥にある小さな調理場に消えて行った。