Dog tag


 盲目の男が言った通り、その日、若者は、店に現れなかった。
 店主は、久しぶりに手ぶらでベッドに入った。昨夜徹夜をしたにも関わらず、疲労は感じていない。興味が失せたわけでもない、が。少々がっかりしたのは事実だ。
 街を出たことのない店主にとって、余所の国からやってきた二人は特別な存在だった。異国への憧れを、そのまま重ねて見ていたのだ。昔の仲間だと聞いて、店主の憧憬は更に色鮮やかな物となった。いつか観た映画の様な、男同志の美しい友情。時に口論をし、時に殴り合い、そして常に信頼し合っていた。
「ビューティフル!」
 けれど、どうだろう。今夜の盲目の男の発言。まるで、おらこんな村嫌だと家族をおいて都会に行き、追われる様に戻って来た父親のようじゃあないか。
 店主は溜息と共に寝返りを打った。明日には雪がやむだろう。

 降雪は終わりを告げたが、雪は未だどっしりと通りを塞いでいる。
「いらっしゃい」
 それでも店にはチラチラと客が訪れた。
「ねえマスター、私達が来ない間、あの人顔を見せた?」
 あの人、というのは例の若者のことだ。店主は泡の乗ったジョッキを空のそれと入れ替え、頷く。
「ええ、お見えになりましたよ」
「え! うっそー! 雪かきわけてでも来れば良かった! 最近良く来るんだね。今日も来るかしら」
「どうでしょう」
 差し支えない台詞で答えながらも、店主は、恐らく二人とも現れるだろう、と思っていた。
盲目の男と若者は、姿を現さなかった。その日だけではない。次の日も、また次の日も。
店主の幻滅を察したかの様に、二人はその存在を吹雪に消した。こうなってしまうと、全てが不思議な錯覚だった気すらしてきてしまう。元々若者は、数か月に一度しか見ることができなかったのだ。客、店主、店全体が見た幻なのではないか。
 吹雪の夜から一週間が過ぎ、店主は想像を止めた。後味の良いラストではなかったし、少し気味が悪いから。
明日は古紙回収だ。一応、と、毎日店に持ち込んでいた新聞を紐で括る。癖で長めに取った紐は、二重に巻いてもまだ余ってしまい、何か物足りなく感じた。
「こんばんはー」
「いらっしゃいませ」
「ねえマスター、今日はあの人来るかしら?」
「どうでしょう」
 女性達は飽きることなく、あの若者の噂話に花を咲かせている。小さなこの街では、取って変わる事件さえ、そうそうありはしないのだ。
 時計の短針が真上を指した頃だろうか。中央にある女性達のテーブルを除き、店は静かに日の終わりを迎えようとしている。店主はチーズを並べた皿を持ち、女性達の真ん中に置いた。
「どうぞ召し上がって下さい」
「あれ? 良いの? 長居しちゃってるのに」
「ええ。実はですね、これ、賞味期限が明日までなんです。食べていただけると嬉しいんですが」
「ラッキー」
 酒が入っている為か、女性達はシンプルに喜びを露わにし、勢い余って店主をテーブルに引き込んだ。
邪魔をしては申し訳ない、というポーズをとりながらも、店主は空いた席に腰を下ろす。酔っ払いの相手も仕事のうちだ。
 差し出されたグラスをちびちびとやりながら、女性達の会話に相槌を打つ。空想癖のある店主にとって、人の会話は下手なドラマよりも面白いものだ。
「あ、そうそう、マスターはあの人の噂、もう聞いた?」
「え? 噂ですか?」
「先週の雪が止んだ日にね、友達のそのまた友達が、このお店に向かう途中、あの人らしい人影を見たらしいの! だから、もしからした、もう会えないんじゃないかな、って」
「……?」
 目撃して、それがなぜ、「もう会えない」まで飛躍するのか。店主は詳細を求めて女性の顔を覗き込んだ。話好きの女性は直ぐに気が付き、身振り手振りを織り交ぜて話し始める。
「暗かったし、本当にあの人かどうか自信はないって言ってたけど。あんな素敵な人がこの街に居たら、どこの誰だか何てとっくにチェック済だもん」
 いや、そこじゃなくってね。店主は胸の奥で突っ込みを入れた。痰を切るふりで仕切り直しの咳払いをし、今度ははっきりと疑問を提示する。
「なぜもう会えないと思ったんです?」
 女性は一瞬沈黙した後、けらけらと華やかな笑い声を上げた。
「あれ、肝心なとこ言い忘れちゃった? 何かね、怪しげな男に後ろから話しかけられて、話をしているうちに口論になったらしいの」
予想していなかった内容に、店主は思わず立ち上がる。「口論!?」
「口論ならまだ良かったんだけど、その後殴り合いになって」
「殴り合い!?」
「その怪しい男っていうのが半端なく強いらしくって。友達が助けを呼ぼうとしている間に、やられちゃったんだって」
「やられた!?」
 乗り出した拍子に手が皿を叩き、ガチャンと耳障りな音をたてた。店主は慌てて椅子にかけ直し、肩を狭める。
「す、すみません。少々興奮してしまいました。それで、あの方はどうなったんです?」
「怪しい男が引き摺って行った……らしいけど、それ以上は良くわからないんだー。ほら、何せ友達の友達の友達の話だから」
「……。そうですよね」
 友達の友達ではなかったのか、という突っ込みは入れずにおいた。
 店主の中で一度は眠ったはずの好奇心が、見る間に首を擡げ、うずうずと暴れはじめる。
世慣れした雰囲気を持つ若者。一時の感情に流されて、口論や殴り合いをするとは思えない。では、殆ど一方的に仕掛けられたとしたらどうだろう。若者が何をして生計を立てているかは定かでないが、銃を持ち歩いている位だ。常時、誰かしらに狙われる職業と考えても、可笑しくはないだろう。
 狙われる職業、といえば、賞金首か。それならば、あの若者が喧嘩といのも納得がいく。人気のない雪の街で声をかけられ、例えば、道を尋ねられる内に、すきを突かれた。
若者がどこに連れて行かれたのか皆目見当がつかない。ぱたりと姿を現さなくなったというのは、良い状況とは言えないだろう。
いや、若者は以前からそう頻繁に店へ顔を出さなかった。寧ろ不自然なのは、盲目の男なのではないか。あの男は、この店以外、若者と会う宛がない様に感じた。実際、初めて出会った日から三日間連続で店へやってきた。「彼は、今日、ここへ来ないだろう」と言った日すら、だ。
 店主は思う。何が理由で消えたかはこの際どうでも良い。今すぐにここへ来れば良い。
盲目の男はこの噂を知っているのだろうか。知らないのならば、今すぐここへ来て、若者の危機を救って欲しい。
 店主はついに、腕を組んでテーブルの周りをグルグルと回り始めた。
常連客の間で店主の空想癖は知れ渡っている。こうなってしまうと、オーダー品の提供は忘れるし、会計は間違うしで手に負えない。噂話の女性は、呆れ顔でテーブルの上の皿を数え、飲食代丁度の紙幣をテーブルに載せた。
「ちょっと待ってよマスター。まだ続きがあるんだって」
「え?」
 店主はピタリと足を止め、女性に詰め寄った。女性は無意味に声を潜める。
「あの人のことは、これ以上知らないんだけどね。その怪しい男、もう、聞いて驚きなのよ!」
 勿体つけているのか、女性はわざとらしく言葉を切った。店主が唾を呑む。早く話してくれと睨みつけたい気分だが、残念なことに、店主の顔には迫力というものが欠けているのだ。大人しく待っていると、女性は何と約一分もの間を取った。ひょっとしていつの間にか話が終わってしまっていたのでは、と不安に陥った所だ。女性は紅の剥げた唇を控え目に動かし、やはり小声で話し始める。
「何とね、怪しい男、その事件があった当日の新聞に載ってた顔とそっくりだったんだって!」
 しかも一面、という台詞に店主はハッと目を見開き、カウンターに向かって走った。事件当日ということは、今から一週間前だ。先程紐で括ったばかりの新聞の中に、それがあるはず。
 長めに残った紐を解き、床一面に新聞を広げる。労することなく、問題の記事は見つかった。目を通してさえいれば、もっと早く気づいただろう。ジャッジ事故から新聞を読まなくなってしまっていたのは、間違いだった。
 写真は、手の平を広げた程の大きさがあった。中央には、精悍な顔立ちの青年が映っている。その青年の顔は知っていた。アルケイディアの君主、ラーサー・ファルナス・ソリドール。バルコニーに立ち、両手を広げている所を見ると、国民に何か重大な発表でもしたのだろう。そんなことは、たいした問題ではない。店主の目を奪ったのは。
「どういうことだ」
 国王の斜め後方に立っている、鎧を纏った男だ。見覚えがある。どころか、会話をしたことがある。
 盲目の男だ。
 そう確信した後も、店主は新聞を顔に近づけ、何度も何度も細部の確認を繰り返した。眉の上を斜めに走る、古い傷痕。間違いない。若者を襲ったというのは、盲目の男だ。
 盲目の男は、貫禄を感じさせる立ち姿で、バルコニーの上から国民を見ていた。見ている格好をしていた、ではない。見ていた、のだ。
「どういうことだ、どういうことだ」
 中央のテーブルには、もう人は居ない。店主は他の言葉を失ったかの様に、同じ台詞を繰り返す。
「どういうことだ、どういうことなんだ」
 写真は、新聞が発行された――つまり、若者が襲われた日の前日のものだ。この街に定期便はない。飛空艇など降りて来れば、街中の噂になる。
 暖炉の火が消えた。店主は、まだ、新聞の前に座りこんだままで居た。
 盲目の男は、どうやってその日の内に帝国からこの街へ来られたのだろう。常識的に考えて、出来るはずのない芸当だ。
盲目の男が、偽物でない限りは。