Dog tag


 時は万人に平等、というのは誤りだろう。人を待っている時の時間の進みは、多分微妙に遅いはずだ。
 店主はカウンターをトントンと指で叩き、新聞の切り抜きに目を向けた。短髪、耳から顎へのライン。しっかり見て取れるのはその程度だ。せめて体格が分かれば、と思うが、鎧を着ていてはどうしようもない。
 あれから、店主は、新聞社に電話をかけた。「ジャッジに家族が居る。怪我人の名前と容体を教えてくれ」と、駄目もとで懇願してみたが、案の定あっさりと断られた。
 追加情報がないとなれば、店主の特殊能力発動だ。一人の空間が、店主の想像を加速させる。
 店主の勘通り、あのジャッジが盲目の男だとすれば、若者は約二週間前の夜、この記事を見たのだろう。これだけ小さな写真で正しく判別ができるものかは分からない。余程親しい仲だったか、確信はないが不安であったか。どちらにせよショックを受け、早々に店を出た。二週間後の来店を予告したのは、続報を期待したのだろう。しかし普通に考えて、ジャッジの怪我がどうだったかなど、公表されるはずはない。それは、若者にも分かっていたはずだ。二週間というのは、続報が発表される可能性のある期間を、前もって定めたのではないか。そこで何も見つからなければ、続報はない。どれだけ気になっても、諦めるしかないのだ。
 この想像が確かならば、若者はどんな気分で二週間を過ごしたのだろう。二週間分の新聞を読み終えた後、酔うまで酒を飲み続けていた。あの時は、もうこの店に来ないつもりでいたのかも知れない。あの時、盲目の男が現れるまでは。
 そこまで考えて、店主は、はて、と行き詰った。
 心配をしていた相手が無事で姿を現したのなら、多少なりとも喜ぶのが普通なのではないか。仮に、何か理由があって、嬉しいと思えなかった、ということにしてみよう。しかしそれでは、翌日にまで店に姿を現す理由がなくなってしまう。第一、忘れてはいけない。盲目の男が隣に腰掛けても、嫌な顔はしなかったのだ。
 会いたくなかったのではない。嬉しくなかったのでもない。でも、喜んだ素振りは、一切見せなかった。
 どういうことだろう。店主は、客が一人も居ないのを良いことに、素手で頭部を掻き毟った。
時計を見ると、短針は九を指している。興奮任せに店を開けたが、今日あの二人が訪れるとは限らない。睡眠不足で頭が朦朧としていることだし、今日はもう帰って休もうか。新聞の切り抜きをシャツのポケットに仕舞込んだ時、ドアが開いた。
「ああ、こんばんは! いらっしゃいませ!」
 お待ちしていました、とは流石に言わないが、ドアの前まで小走りで客を出迎える。入って来たのは、盲目の男だ。
 店主は少し戸惑った。今日は若者が来ていない。若者に会う為に店へ訪れているこの男にとって、それはとても残念なことなのではないか。
 見えない店主の表情を、それでも空気で悟ったのだろう。盲目の男は固い印象のある顔を、柔らかく緩ませた。
「生をジョッキで」
 盲目の男は、まるで全て見えているかのように、いつもの席へ腰をおろした。
「今日は音楽がかかっていないのだな」
「ええ、昨日はたまたまでした」
「彼がかけて欲しい、と?」
 なぜそう思ったのだろうか。店主は一瞬首を傾げたが、急いで笑顔を作り直した。盲目の男には、見えてしまっている気がしたから。
「ご名答です。昔から音楽がお好きなんでしょうか」
「どうなのだろう。音楽には場を和らげる力があると聞く。彼はそれを狙っていたのだと思う」
「……実は、私も、そんな気がしておりました」
 話やすい。寡黙だが、ストレートだ。店主は自然に任せてハハと笑い声をあげた。そして同時に、これならば、と思う。
 盲目の男なら、多少の詮索は許されるのではないだろうか。
 店主は冷えたジョッキにビールを注ぎ、盲目の男の前に置いた。
「今日はおいでにならないのでしょうか」
「……度々ここへ?」
「いいえ。以前は数か月に一度でした。二日連続でいらっしゃったのは、昨夜が初めてです」
「なるほど。それを聞いて安心した。避けられているわけではなさそうだ」
「そんな心配を?」
「してしまうだろう。彼はまだ一度しか口を利いてくれていない」
「……それですが。実は私、貴方が幽霊なのではないかと思っておりました」
「おや、失敬だな。まだ死ぬ気はない」
「あはは、申し訳ない。今は思っておりません。何か怒らせるようなことをしてしまったんですか?」
 軽快に流れていた会話が僅かに間を作り、店主は密かに動揺した。盲目の男は緩慢な動作でビールを一口喉へ流し込み、コミカルに落胆の溜息をついた。
「今回に限らず、私には、彼が何故怒っているのかが、いつもまるで分からない」
「あちゃ、スイッチの位置くらい、知っておいてあげましょうよ」
「同じ台詞を、本人にも言われたことがあるよ」
「ああ、たまに、びっくりする位、はっきり言いますよね」
「姑だったらチクチクと嫁をいびるタイプだろう」
「あ、今、ちょっと想像できてしまいました。楽しそうでしたよ」
 上手くはぐらかされた気がしないでもなかったが、店主はそれ以上の問い詰めをやめた。単純に、盲目の男と話しをするのを楽しみ始めた。談笑しながら思う。盲目の男と若者は、どんな会話をするのだろうか。
「さて、今日は早めに帰るとしよう」
「おや。お待ちにはならないのですか」
「恐らく今日は来ない」
「そうでしょうか」
「以前はそう頻繁に顔を見せなかったのだろう。人目を気にする男だ。急に毎日来たら、私を気にしている様に思われる」
「ああ、なるほど。そんな気がしてきました。さすがですね! お仲間とおっしゃるだけある」
 店主が拳で手の平を打つと、盲目の男は薄らと耳朶を染めた。
「無駄話に付き合わせてしまって、すまなかったな」
「いえいえ、楽しかったです。ひとつお聞きしても宜しいですか?」
「ああ。構わない」
 盲目の男の快い返答にも、店主は幾らか戸惑った。冗談交じりではなく、前もって真剣な質問だとアピールをしたのは、確実に答えを返して欲しいと思ったからだ。店主と客という関係上、余計な詮索は、頭より外に出すべきではない。その辺りの常識を打破してしまえば、店主は迷わず新聞の切り抜きを差し出し、「これは貴方か」と問うだろう。が、店主は、そうはしない。
「なぜ、あの方に会いに?」
 これが、店主の考えるギリギリのラインだ。
光のない青い瞳が、手探りで店主を捕える。盲目の男は瞬きが少ない。
ほんの僅かな間だったが、壇上へ続く階段を上っている様な気分になった。ややあって、青い目の拘束が弱まり、店主は呼吸を再開させた。
「私は、視力を失った。それによって、居場所が変化したのだ。私は居るべきだと思う場所へ行きたい。だが、彼は、元の場所へ戻れと言いたいのだろう」
「……」
「すまないな。あまり考えを伝えるのが得意ではない」
「いいえ。いいえ」
 店主はとうとうそれ以上の言葉を探し出せなかった。
 これまでの店主の憶測が的中していることを前提に、今の話を考えると、盲目の男は光と共に、職を失ったのだろう。そこで若者の前へ姿を現したのだ。どんな経緯で、仲間であった二人が離れたのかは知らないが、何とも虫の良い話しではないか。三年の間新聞を気にし続けた若者と、職を失って戻って来た男。若者が口を利かないのは、その為か。
 店主は静かに繰り返す。深く知りもせずに、人を評価するものではない。深く知りもせずに、人を評価するものではない。
 音のない怒りを感じ取ったのだろう。盲目の男は、短髪を後方へ撫でつけて、
「私は、欲望に忠実な人間だ」
 と、微笑んだ。自嘲とも取れるそれに、店主は「ああ、この男、以前は髪が長かったのかも知れない」と思った。