Dog tag


 翌日。店主は三十分ばかり寝坊をした。布団に入っても上手く寝付けなかったのだ。
朝日にささやかな悪態をつきながら、枕元の古新聞を広げる。昨夜、寝返りの際に踏み潰したのか、変な皺が寄ってしまっていた。
 長居をした馴染みの客と、その隣に座った盲目の客。そう珍しくはない、取るに足らない出来事だ。知り合いの妻が若い男と腕を組んで入って来た時よりも、よっぽど平和なワンシーンだろう。それなのに気になってしまうのは、若者の持つ、あの、乾燥した土の様な雰囲気に興を添えられた所為か。それとも、突然現れた不思議な男の所為か。
 どちらにせよ、今、店主は、内から漲る興奮に心底戸惑っていた。秘密めいた高鳴り。少年が道端で卵を拾った時のような感覚。小さな掌にそっと隠して、温めて。
 何が生まれてくるのだろうか。
 昨夜は三十分ばかり閉店時間を延長した。先に盲目の男が店を出て、それを追うように若者も帰って行った。てっきり一緒に行くとばかり思っていたから、些か面食らった。三年ぶりと言っていたが、結局一言も口をきかなかったのだ。あの二人は。
 単に若者が酔っていたのだと考えれば少しは納得いくが、そうなると盲目の男の行動が分からない。酔っている、しかも三年ぶりに会った友人を一人置いて行くとは、どういうことだろう。
幾ら考えても、しっくりくる答えが導き出せず、店主はクシャクシャになった新聞を捲った。
 あの若者は、一体何の記事を読んでいたのだろうか。何が正解かも分からず、闇雲に答えを探すという行為は、読めない英文の問題の中から、正しい解答を抜きだそうとするのと似ている。店主はムンと腕まくりをして、もう一枚、新聞を捲った。店主の人柄を語らせると、大抵の友人は物好きと答える。

 その夜、意外にもあの若者が店に現れた。若者と出会って三年になるが、二日続けての来店は、これが初めてだ。
 店主は驚きの余り言葉を失い、若者の顔をまじまじと見た。
「申し訳ございません。今、店には、今日の分の新聞しか」
「ああ、いや、いい。今日は酒を飲みに来たんだ」
 ばつの悪そうな笑顔を浮かべ、カウンター席に腰掛ける。あれ程優雅で美しいと感じた動作も、今日はなぜか固くぎこちない。
 何かあったのだろうか。そう考えてしまえば、全てが不自然に思えてきてしまう。二週間後という予告。酒に飲まれるまでの長居。立て続けの来店。
 やはり新聞記事に何かが隠されているのだろうか。
細部の違和感に気を取られてしまったのが不味かったのだろう。店主は何も聞かずにビールを注いでしまった。若者は決まって最初にビールをオーダーする。が、恐らく常連客扱いは好まない。だから店主は馬鹿らしくも真面目に「ご注文は」と繰り返してきたのだ。三年かけての気遣いだった。ジョッキをカウンターへ下ろした所で、店主はしくじった、と、目を閉じた。
 若者は、くすと鼻を鳴らしてジョッキを受け取った。
「どーも」
 語尾を上げて、疑問符をつける様な口調。気遣いや失敗や、それに慌てふためく内心までも見透かされている様に思えて、店主は火照った耳を後ろへ背けた。
 新聞を読まない若者は、どことなく近寄りがたい空気を纏っていた。酒を飲むにはまだ早い時間だ。近所の常連客がひとり、奥のテーブルを陣取っているが、つまみを食わない為、店主にカウンターを離れるきっかけはない。
「なあ、音楽をかけてくれないか」
「かしこまりました」
 若者に強請られ、アンティークの蓄音機を回す。所々入るノイズは趣がある――と、店主は思っている。非常に残念ながら、今の所それを客に褒めて貰ったことはないけれど。
 間もなく、クラッシック音楽が、店の隅々まで行き渡った。緊張が解れて行くのを第三者の様に感じながら、店主はジョッキの並んだ冷蔵庫を閉めた。
 この若者は、気が付くといつも先回りをしている。一見ソフトな人当たりだが、実際はとても接しづらい。盲目の男とは逆だ。若者本人も自覚しているのだろう。だから、相手の表情を掴んで、先回りをするのだ。その手際の良さ故に、彼の良さを見落とす人も多いのではなかろうか。店主は地味な優越感に浸った。
 一時間が過ぎても、一向に次の客は入って来なかった。奥のテーブルに居た常連客も、つい先ほど帰ってしまった。若い女性が昨夜に集中したせいもあるだろうが、ほぼ毎日訪れる客まで姿を見せないのはおかしい。
 雪が降っているのだと気がついたのは、それから更に一時間が過ぎた頃だった。木製のドアが開く。向こう側の黒い闇では、白銀が激しく踊り狂っていた。
「ああ、いらっしゃいませ。どうもこんばんは」
 盲目の男だ。店主は反射的に、若者の表情を探った。昨夜程はアルコールも量をこなしていないはずだが、やはり何の反応も示さない。
「雪が降っていたのですね。気がつきませんでした。さあさあ、早く暖炉に当たって下さい。風邪をひいてしまいます」
 盲目の男を店内へ導きながらも、店主は疑問を膨らませる。
 目が見えないのに、吹雪の中を歩いて来たのか。それだけの理由があるとして、ではなぜ、若者は知らん顔をするのだろう。
 盲目の男は迷わず若者の隣に腰を落ち着けた。
「生をジョッキで」
 言葉は、同じ。店主は「かしこまりました」とお決まりの文句を返し、冷えたジョッキにビールを注いだ。
 無言がさほど苦に感じないのは、先程かけた音楽のせいだろう。会話はないが、包む空気は穏やかだ。
 暇を持て余し、店主はお得意の想像を始める。盲目の男は、三年前に若者を怒らせるようなことをしたのかも知れない。一人の女を取り合って、という類のものではなさそうだ。完全無視を決め込んでいる割に、若者に拒絶する気配は見られない。恋敵ならばこうは行かない。
 では、そうだ。盲目の理由が関わっているのではなかろうか。盲目の男は腰に剣を下げている。若者は銃を持っている。盲目の男の『仲間』という表現からも、以前は互いの背を守りあった間柄なのではないだろうか。かつてない強敵と遭遇し、二人は生か死かの境地に立たされた。その際に、若者の危機を、男が救ったのだ。結果、男は光を失った。若者はそれを気に病み、男の前から姿を消した。音信不通のまま、三年が過ぎ、男は漸く若者を探しあてたのだ。
 二人の仕事は、高位の軍人か盗賊ではないだろうか。新聞に載る職業なんて、政治家とアーティストを除けば、かなり限られてしまう。それならば、盲目の男の現在を気にして定期的に新聞をチェックしていた若者、雪の中をわざわざ訪れた盲目の男、全て納得がいく。かけがえのない仲間を思い、求めた三年。今ここに言葉は必要ない。信頼に変わりはない、と、無言の時が囁き合うだろう。
 危うく店主の中のストーリーが完結しそうになった。ちゃちゃを入れたのは、盲目の男の言葉だ。
「バルフレア……、何をそんなに苛立っているのだ。余り飲み過ぎない方が良い。体を壊してしまう」
 角の多い声にも関わらず、優しく響いた。痛々しくさえ思えた程だ。思いやる言葉は時に、痛みに似た感覚を胸へ残す。例えば、そう、相手に届かない時。
 バルフレアと呼ばれた若者は、一音の声さえ返さなかった。おろか、指一本も動かさない。まるで、盲目の男の存在そのものを、認識できていないかのように。
「……さか」
 店主は喉を引き攣らせた。まさか。まさか、そんなことがあってたまるか。否定しても、幼い頃から空想癖のあった頭が、勝手に動き始めてしまう。
 盲目の男は、もう、命を落としているのではないか。
 昨夜、男が店に入って来た時の様子を思い出す。音も、気配もなく、気づいたら目の前に居た。甥が「いらっしゃいませ」と言ったけれど、それは本当に、盲目の男にかけた言葉だったか。接客経験の乏しい甥だ。疲労で「かしこまりました」と言い誤ったのかも知れない。
 若者は、何らかのトラブルではぐれてしまった相方の死報を探していたのではないだろうか。生きていて欲しい、きっと生きている。そう思い込む傍ら、不安に駆られ、新聞を捲る。名前がない事を確認し、胸を撫で下ろす。しかし不安は消えない。定期的に新聞を手に取り、義務的に、食事を掻き込む様に、一気に記事を読み漁る。とある日、若者はとうとうその名を見つけてしまった。それが、昨夜だ。
 店主はぶるりと足を揺らした。顔面からは血の気が引き、視点は落ち着きなく宙を泳ぐ。それに気づいてか、若者は小首を傾げてグラスを置いた。
「アンタこそ、風邪ひいたんじゃねえのか」
 今にもひっくり返りそうな店主の腕をカウンター越しに支え、クスクスと笑う。細めた瞳が、暖炉の火の動きによって色を変え、とても美しい。店主は暫く若者の瞳に見入った後、ハッと我に返って頭を下げた。盲目の男が面白くなさそうに眉を顰めたが、そこにはさっぱり気づかない。
「申し訳ございません」
「いや、こんな日に邪魔して悪かった。そろそろ帰るとするか」
 若者は歌うような口調で言い、革のポーチから紙幣を掴んでカウンターに乗せた。
「丁度だ」
「確かに」
 若者は、チャーミングとキザの間辺りでヒラヒラと手を振って、店主に背を向けた。一、二、三歩。思い出した様に足を止める
「アンタ一体何のつもりだ。どうしてここへ」
 怒り、喜び、悲しみ、どれとも異なる、複雑な声だった。平坦に押し殺した声の端々が、抜ける様に音を失い、空気へと変わっていく。背を向けていたから、誰に向けられた台詞かは、はっきり示していなかったが。
「私も帰るとしよう」
 盲目の男の苦笑いが、若者の言葉によって引き出されたのは確かだろう。

 その夜も店主は新聞を広げた。がらんどうの店を閉め、風呂も食事もおざなりにして。記事の大まかな内容を見ただけでは分からない。隅々まで気を張って、関連のありそうな記述を探す。
 死亡者欄の確認はしなかった。幽霊説はもう消えた。若者もあの盲目の男の存在に気づいているのだ。ただ、完全に無視をし続けているだけで。
「無視……」
 店主は古紙を捲る手を止めた。その表現は、どうもしっくりとこない。不適切に思える。無視というよりは、単に話しをしないだけだ、という気がしたのだ。
 包むのは、微かな緊張感と、懐かしさと、温もりと。
 バルフレアと呼ばれた若者が、盲目の男にかけた最初の言葉は、非常に辛辣なものだった。
『何のつもりだ。どうしてここへ』
 そこにどんな意味が含まれているかは分からないが、少なくとも、久しぶりに会う仲間に言う台詞ではない。しかし店主は感じたのだ。きつい言葉だが、嫌悪で突き離す様な冷たさは、なかった。
 記事の細部にまで目を通し、済んだものにはマーカーでチェックを入れて行く。没頭していた。目を休める僅かな時間さえ、空想に注ぎ込んだ。
 肌寒さから意識を外へ向けた時には、すでにカーテンの向こうが白み初めていた。肩を狭めながら、窓の外を見る。
「珍しい」
 雪は止んでいなかった。降雪を目にするのは初めてではないが、それでも十分希少と言える。これだけの積雪ともなれば大層珍しい。
 今日は店を休むべきだろうか。雪慣れのないこの街だ。今夜の客入りは見込めないだろう。
 店主は悴んだ手に吐息をかけて、よいしょとベッドから這い出た。アンティークのサイフォンに火を灯す。葉巻へ火種を分け、何となしにチェックの済んだ新聞を持ち上げた。うち一冊が合間から滑り落ち、フローリングの床に広がる。その新聞にはマーカーのチェックが入っていなかった。しかし、面倒だ、を理由に、店主はすぐにそれを拾い上げたりはしない。
 約二週間前の新聞。店主がその記事に目を通すのは、モーニングコーヒーを啜ってから約一時間後の事だ。
 そこには、僅かな情報と、縦横合わせて五センチ程度の写真が記載されていた。モノクロの写真には、異国の鎧の群れが映っている。小さな事件だ。訓練中の不慮の事故で、数人のジャッジが怪我を追ったという。色のない写真では、タンカで運ばれる短髪のジャッジの髪の色まで判別がつかなかった。なので、盲目の男と、この事件との関連を見出せたのは、夕食の準備をし始めた頃になる。
店主は鍋の中から噴き出す湯気を顔面に受け、両目を覆った。
「ああ、そういえば」
そういえば、短髪のジャッジが一人、同じポーズをしていた。
妄想癖のある店主は、鍋の火を止め、慌てて店を開く準備を始めた。