Dog tag


 予告通りに、若者は現れた。店主はほうと感心の溜息を洩らした。酒を出す席での口約束だ。余り真には受けないでおこうと意識していたのだ。しかし成る程、なかなか律儀な性格なのだろう。日給二〇〇〇ギルを餌に甥を呼びつけておいて良かった。
「二週間分あります」
 カウンターに新聞を積み上げると、若者は短く礼を言って早速それを手に取り、パラパラと捲り始めた。
 静かな時が流れる。いつもよりも少し混雑した店内では、店主の甥が額に汗を浮かべながら、忙しなく走り回っている。まあ、二〇〇〇ギルも払っているのだ。任せておけば良いだろう。幸い今の所、提供で客を待たせたりはしていない。
「ご注文は?」
「生をジョッキで」
 フと手を止めては、古紙の記事に目線を固定させる。毎度のことだが、記事の内容は、店主の位置から見えない。店主はいつもの様に、当てる気のない想像を始めた。
 どこかの国の女王にひと目惚れしたのかも知れない。モノクロの写真を見て、密やかに彼女の幸福を祈っているのかも知れない。はたまた有名な怪盗だろうか。盗まれた財宝。前回出した犯行予告は、そう、丁度、二週間後に、と。翌日は酒を飲みながら新聞を眺め、世界が大騒ぎをしている様子を楽しんでいるのではないか。
 いつか知りたくはある、若者の正体。想像だけで十分だと思う反面、真実を知りたいとも思う。
 夜が更けた。若者は珍しく、まだ、店にいた。
「追加で」
「かしこまりました」
 空のボトルが床を埋めていく。本来なら「もう止めておいた方が」と忠告をするが、今回に限って、店主は何も言わずに居た。若者が全く酔った素振りを見せていない、という安心感も確かに理由のひとつではあるが、酔って口が軽くなってくれるのならば、それはそれで楽しそうだと考えたからだ。
 女性達はチラチラと帰路へつき始めていた。しつこく残っている者も居るには居るが、きちんと意識を保っているかは怪しい所だ。この店の酒は、そこらのバーと比べて格段に強い。
「いらっしゃいませ」
 甥のぎこちない挨拶が聞こえて、店主はドアに目をやる。こんな時間に客だろうか。時計の短針は既に真上を通り過ぎている。閉店時間は延長する気でいたから、構わないのだが。
 ドアから店内の奥。視線を一往復させた店主は、はて、と首を傾げた。新しい客の姿は見えない。さてはやはり、店を甥に任せっきりにしたのが不味かったろうか。忙しさの余り、幻覚を見てしまったか。
 気を取り直して、洗いかけのグラスを取る。そこで店主はハッと息を呑み、床に並べたボトルをドミノ倒しにしてしまった。
「い、いらっしゃいませ」
 ドアを見て、店の奥を見て。それは、ほんの数秒の間だったろう。更に、人間には、決して狭くはない視野がある。目の前に客が座れば、どれだけ他のものに没頭していても気がつくだろう。
 新しい客は、若者の隣に座っていた。お世辞にも広いと言えない店内でも、閉店時間が近づいた今は、空席の方が多い。
この客には男色の気があって、若者を口説こうとしているのでは。そう思ってチラリと様子を窺ったが、若者は余程難しい考えごとでもしているのか、何の反応も示さない。
「生をジョッキで」
 客は柔らかく微笑み、酒をオーダーした。誰かと同じ台詞。気にはなったが、動揺が重なってそれどころではない。店主は、言われるままジョッキにビールを注ぎ、客の前に置いた。
 客は革の手袋を外し、カウンターの上を探る。指先が冷えたガラスに触れると、確信を持った様に取っ手を掴んで、ジョッキの端に口を付けた。
 盲目なのだろうか。
脂汗を拭いもせずに、店主は不思議な客の観察を始める。深くフードを被っているせいで、目線はおろか、顔付きさえ分からない。しかし、洗練された武人を思わせる、風一つの音さえ拾い集める様な雰囲気は、目が見えない所為なのだろう。
 店主は好奇心を押さえて仕事に戻った。といっても、殆ど空っぽになった店に残っているのは、食器の後片付けばかり。乾いた布で水滴を拭うと、ジョッキの表面に若者の顔が映る。
 まだ、隣の客の存在に気がつかないのだろうか。店主はわざと食器を鳴らした。若者は少し顔を上げたが、何度か瞬きをしただけで、再び紅に染まったグラスに目を落とした。
 店主の様子を見て――、いや、気配を探って、客はクスと微笑む。
「彼は酔い始めると瞬きが多くなる。そろそろ止めた方が良いだろう」
「え?」
 そうか、驚いた。若者の間隣に座ったフードの男。若者が全く嫌な顔をしなかった理由は、酔い初めていたから。そして、その男が知り合いであったから。
 もう一つ分かった事といえば、この男は生まれつき目が見えない訳ではないらしい。口ぶりから察するに、少なくとも、若者が酒に酔う所を見たことがあるのだろう。
「お知り合いでしたか」
 店主は素直に納得の表情を作って見せた。客もそれに合わせる。
「かつての仲間だ。もう三年ぶりになる」
 遠い昔を思い起こす、底のある声色。店主は、ああ、と相槌を打った。若者が店に訪れるようになったのも、約三年前からだ。
「それでは、今日は彼に会う為にここへ?」
 目で若者を指すが、話題の人物は少しの反応も寄こさない。フードの男が言うとおり、酔っているようだ。
男は少し考えてから、ゆっくりとフードを外した。店主は立場を忘れて凝視をする。歳は店主と同じ位だろうか。黄金色の短髪に、整った目鼻立ち。大きくはない切れ長の目が、上品で誠実な印象を与える。額から眉を切る様に傷痕があったが、それさえも魅力的に感じられた。
 男は、深海を思わせる瞳を細め。
「その為に生まれて来たのだ」
 と。確かにそう言った。