Dog tag


 あの時こうしておけば良かった、なんて後から悔いるのと、もしこうだったならば、なんて叶わぬ事を夢見るのは、過去と未来という対極の時間軸にありながら、少し似ている。
 どちらも馬鹿らしいくらいに不毛で、悲しいくらいに切実だ。
 眠れぬ程の後悔は、幾度となく経験してきた。けれど、叶わない願いにネチネチと執着するのは、恐らく生まれて初めてだ。
 寝返りと溜息は同時。バッシュは、カーテンの隙間から漏れる月明かりに、目を細めた。薄ぼんやりと、雲のかかった空。それでも、まるで太陽を直視する様に、眉を顰めて。
 例えばこの目から視力が失われれば、願いは叶うのだろうか。例えばこの両手が削ぎ落とされれば、願いは叶うのだろうか。力を失って、この場所から放り出されたとなれば、あの気高い人物は、何も言わずに受け入れてくれるのだろう。
 大切なものが、ふたつあった。
 ひとつが、意地と誇り。ひとつが、赤子の駄々に似た本能。
 与えられた道は、ひとつしかなかった。いや、最初は確かにふたつあったのだ。道の前で、どちらへ進めば、と途方に暮れて膝を落としていた。その時に背を押したのは、誰でもなく、あの人物だった。
「おいおい情けねえなあ、将軍様よ」
 その人物は、殆ど名前を口にすることなく、茶化す様にそう呼んだ。
「よく見ろ、悩むまでもないだろ。片方は、幻だ」
 彼がのんびり言葉を紡ぐ間に、ひとつがすうと消え失せる。バッシュは呼吸すら忘れてそれを見ていた。
「君が、そう言うのだな」
「ああ。そうさ」
 幻にしたのは、彼だ。完璧な笑顔は、空々しく瞼の裏に残った。
 細めていた目を瞑った。人間の瞼は何て中途半端なのかと、バッシュは思う。薄い瞼を閉じた所で、灯りは透けてしまうのだから。
 大切なものが、ふたつ、ある。同じように、この身がふたつあったなら。
 叶わぬ事を夢見るのは、馬鹿らしいくらいに不毛で、悲しいくらいに切実だ。
 あの旅から、三年が過ぎていた。

*     *     *

 その客が酒場に訪れるようになって、約三年。忘れかけた頃に現れては、毎度古新聞を要求する。
「ニか月分あります」
 店主が渡すと、客は気取った仕草でそれを受け取り、小首を縦ではなく横に傾げた。
「どーも」
 語尾を上げて、疑問符をつける様な口調。ニ、と口角を片方持ち上げるだけのニヒルな笑顔や、軽い中にもどことなく影を感じさせるこの若者は、女性から見たら確かに魅力的に映るのかも知れない。
 店主は店の中央に居る常連客達にチラリと目をやった。店の近所に住む、二十歳前後の女性達だ。チロチロと若者を見ては、噂話に花を咲かせている。角膜にカメラの機能でも取り付けたのか、黙って凝視している者もいる。
 謎の多い若者は、そう度々現れるわけでもないのに、店の影の名物になりつつあった。お陰で店は、地味にだが客は増えたし、若者がいつ来るか見当もつかないという理由から、本来酒場は閑古鳥必至の時期でも、虚しい思いをせずに済んだものだ。しかし何につけても女性の噂話と言うのは、実に恐ろしい。
「お客さん、今日は何を?」
 店主がグラスを拭きながら聞いた。若者は決まって最初にビールを頼むが、あえて毎回聞くことにしている。彼が顔見知り客という扱いを好まないように感じたし、ひょっとしたら店主自身も、この、どことなく花のある若者に興味を抱いていたのかも知れない。
「生をジョッキで」
 若者は丸みのある声を歌うように響かせ、そう言った。
「かしこまりました」
 形式通りに反す。ジョッキはこっそり冷蔵庫から取り出してある。店主は、彼が歌を口ずさんだら、どんな風だろうかという想像に、頭を忙しくした。
 若者は淡々と新聞を捲り、それなりのハイペースでジョッキを傾ける。やがて。
 ああ、ほら、また手が止まった。
 店主はグラスを拭きながら、視界の横に若者の姿を収めた。パラパラと新聞を捲る手がピタリと止まり、少し垂れたグリーンの目が文字を追っている。店主の位置からでは、記事の内容までを把握することはできないが、若者は時折こうやって、食い入るように新聞を見ているのだ。
「何か気になることでも?」
 何度聞こうと思ったか。しかし店主は、何も言わずに、ぐるりと髭が囲んだ口へと葉巻を差し込んだ。
 若者はもしかしたら、殺人犯なのかも知れない。過去に大きな事件を起こして、逃げ回っているのかも知れない。確かに、一番近い帝国からでもチョコボで二日かかるこの田舎街は、罪人の隠れ家も多い。それとも、放浪の詩人だろうか。歌詞を提供したアーティストが成功を収めているか、確認しているのだろうか。そんな風に勝手な想像を膨らませる時間を、楽しんでいたからだ。真実を知りたくもあるが、知ってしまえば、楽しみがひとつ減る。誠に複雑な心境である。
「宜しければお持ち帰り下さい」
 目配せの様に、密やかに言った。新聞の話だ。店には、月に二度程、新聞屋が古紙を回収に来る。けれども常時、数か月分が保管してあるのだ。その動機は、言わずと、若者へのささやかな興味に過ぎない。
 若者はフムと軽く店主を見遣り、唇の端を持ち上げた。
「欲しいんだったら、自分で新聞を取るさ。こんなもの、嵩張るばっかで邪魔だろ」
「ああ、左様ですか」
 店主は、噴き出してしまいそうになるのを、必死で堪えた。若者に見せようと、その邪魔な古紙を二か月分も保管している店主の立場はいずこだろうか。親切心からの申し出に対して失礼極まりない返答だったが、殆ど会話も交わした事がないというのに、ハッキリ「邪魔」だと言ってしまう若者が、とても愉快に思えた。
 仕草は気取っているのに、性格に飾り気がない。面白い青年だ。店主は、もっと若者と会話をしてみたい、と思う。口を開きかけると同時に、ギギと椅子の足が鳴った。
「ご馳走さん」
「おや。もうお帰りで?」
「ああ」
 腰に下がった革のポーチから、紙幣を一枚取り出す。それに限らずだが、若者の動作は流れるように優雅で美しい。店主はこの会計というチャンスに、仕事の手を止めてじっくり眺めることにしている。彼がダンスを踊ったなら、と想像しながら。
「丁度だ」
「確かに」
 若者は、チャーミングとキザの間辺りでヒラヒラと手を振って、店主に背を向けた。一、二、三歩。足を止めて、思い出した様に首を回す。
「ああ、そうだ。新聞、次は二週間分で良い。それまでにまた邪魔するよ」
 店主は、葉巻を落としてしまいそうになった。古紙回収が二週間に一度だなんて、教えただろうか。
「……お待ちしています」
 ここで変な間を空けるのは不自然だ。店主はぴしりと四五度で会釈をした。店を始める前は、ホテルマンをやっていた。分かる人には分かる――と思って続けている、丁寧な会釈。非常に残念ながら、今の所それを客に褒めて貰ったことはないけれど。
 若者は、ニと悪戯染みた頬笑みを浮かべ、今度は手を振らずに背を向けた。
 ドアが閉まると同時に、店の中央にあるテーブルが沸いた。
「二週間後ですって!」
「新しい洋服買っちゃおうかしら!」
 店主は、店を閉めてから、一人暮らしの甥に電話をかけた。
「二週間に一度、店を手伝いに来ないかい?」
 だって、若い女性の噂はとても恐ろしいのだ。あまり混雑されては、若者の相手が出来なくて困ってしまう。